脊柱管狭窄症から黄色靭帯骨化症を併発も、手術後の残存痛を自分で治した桑田弘文さん(72歳)|カラダネ

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脊柱管狭窄症から黄色靭帯骨化症を併発も、手術後の残存痛を自分で治した桑田弘文さん(72歳)

「狭窄症ドキュメント〜狭窄症と診断されて〜」では、実際に狭窄症になった読者の方を紹介します。

今回紹介するのは、東京都に住む自営業の桑田弘文さん(72歳)。
桑田さんは、10年前に慢性腰痛が悪化し、脊柱管狭窄症と診断されました。間欠性跛行などの症状をはじめ、坐骨神経痛、さらには黄色靭帯骨化症、脳梗塞など、さまざまな問題を抱え、悩み苦しんだ桑田さんは「操体法」と出合い脊柱管狭窄症が改善することができました。
その足跡をご紹介します。

※この記事は、「脊柱管狭窄症克服マガジン 腰らく塾 vol.1 冬号」の記事の抜粋です。

腰の酷使と冷えで慢性腰痛になった

私は、柔道を高校時代に始めてから、夢中になって続けてきました。得意技は支え釣り込み腰という腰技で、腰を右にひねる動作ばかりしていました。背負い投げで、100kg近い相手を背負うこともたびたびでした。今から思えば、それが腰を悪くする原因だったのかもしれません。

30代初めには、妻に宝石店の店番を頼んで、毎日のように柔道の練習に通っていました。ちょうどそのころのことです。
大柄な相手に寝技をかけられてもがいているときでした。「バリッ!」と大きな音がして胸に痛みが走ったのです。
慌てて救急病院で診察を受けたら、肋軟骨の骨折といわれました。鎮痛薬を処方されたのですが、寒い日の夜で診察を待っている間に体が完全に冷えてしまいました。
そのせいか、帰宅後、今度は骨折の痛みを忘れるほどの腰痛に襲われたのです。激痛で寝返りもできないくらいでした。

その痛みは数日で治まったものの、これをきっかけに、腰痛がジワジワと出てきて、40代から痛みが強くなってしまいました。60歳前後のときには、慢性腰痛に悩まされていましたが、「柔道をやりたい」という気持ちが強く、相変わらず稽古に没頭していたのです。

不思議なことに、畳の上に立っている間は、痛みがほとんど気になりません。30~40分間、3分ごとに違う相手と組んでいく乱取りの稽古などは、楽しくて思いっ切りやっていましたね。
柔道家の多くは、足腰に問題を抱えているものです。痛みがひどくなると、総合病院の麻酔科に稽古仲間の医師がいて、そこで神経ブロック注射(神経の周囲に局所麻酔薬を注射する治療法)を打ってもらい、しのいでいました。

手術をすすめられたが決心できなかった

そうした生活が4~5年続いた10年前の寒い冬の真夜中です。眠っていたら突然、腰の激痛で飛び起きました。痛みで朝まで一睡もできず、ただもううずくまっているしかありませんでした。
総合病院の整形外科でMRI(磁気共鳴断層撮影)検査を受けたら、腰椎(背骨の腰の部分)4番5番の脊柱管狭窄症と告げられたのです。

入院して24時間、鎮痛薬の点滴を受け、2週間入院していました。その間に左の殿部からふくらはぎにかけて強い坐骨神経痛も現れ、左足に力が入りづらくなりました。医師からは手術をすすめられたのですが、決心がつかず、いったん退院したのです。
それからは、歩くときに杖が必要になってしまい、自分の人生の可能性が閉ざされてしまったかのような絶望感を覚えました。

「柔道の稽古をしたり、好きなギターのコンサートに行ったりすることは、もはや自分一人ではできないのだ」と思い悩みました。
特に朝が憂うつで、痛みとともに目覚めるたびに体の不自由さを思い知り、「またつらい一日が始まるのか」とため息をついたものです。

さらに間欠性跛行(こま切れにしか歩けなくなる症状)にもなり、もうやり切れない気持ちでいっぱいでした。イスに座っていても、ベッドに横になっていても、腰や足の痛みから解放されません。
自宅から廊下でつながっている仕事場までは、痛みを我慢しながら杖をつき、やっとの思いで歩いて通いました。そんな生活を送っているにもかかわらず、腰の調子がいいと、あろうことか道場に行って乱取りの稽古をしてしまうのです。

無理がたたり、間欠性跛行が2年間で一気に悪化してしまいました。10~20歩しか一度に歩けなくなってしまったのです。
仕事も日常生活も、妻に頼りきりになり、ともすると投げやりな気持ちになって、妻につらく当たってしまうこともありました。妻は、いつも下を向いてふさぎ込んでいる私を心配し、家の中は常に暗い雰囲気になりました。生きる気力がなくなってウツのようになり、「仕事を辞めてしまおうか」と極端な思いも浮かびました。

6時間半の手術後に3日で痛みが消失

何を食べてもおいしく感じられない日々が続き、とうとう、トイレにはって行くような状態になったとき、柔道仲間から、「神の手」を持つという整形外科医がいると教えてもらったのです。
早速、診察を受けました。先生は、私の歩き方を見ただけで、「早急に手術が必要」と診断し、すぐに手術の日程を決めました。

私にひとすじの希望の光が差しました。もしかしたらこの苦しみがなくなるかもしれないと、パッと気持ちが明るくなったのです。手術までの一週間は、痛みも少し軽減したくらいに思えました。
2008年7月25日、私は腰椎の4番5番にチタンのプレートとボルトを入れる、6時間半ほどの手術を無事に終えました。
手術後に目を覚ましたら、妻が心配そうに見守っていました。私はみるみる回復し、なんと3日めには痛みをいっさい感じずに病院の屋上を散歩できたのです。そこで深呼吸したときのすがすがしさは、鮮明に覚えています。

それから、無理のない範囲で毎日散歩し、病院食をおいしく味わい、1週間で退院しました。
足腰の痛みがすっかりなくなったので、早く柔道がしたくてうずうずしましたが、先生の指導で、1年半は柔道を我慢し、毎朝30~40分間ウォーキングをして過ごしました。
そして1年半後、待望の柔道の稽古を再開したときには、うれしくてしかたがありませんでした。その後5年間は、毎日のように、柔道を楽しむことができ、痛みの再発は全くありませんでした。

黄色靭帯骨化症になり一大決心をした

ところがまたもや、稽古をしすぎたのでしょう。2016年3月、今度は左腰に痛みが出てしまいました。それでも稽古を続けていたら、4月には激痛となり、再び家の中をはって進まなければならなくなってしまったのです。
病院の検査では、胸椎(背骨の胸の部分)12番の黄色靭帯骨化症と診断され、すぐに前回と同じ先生の手術を受けました。

手術後は痛みが消えて、ウソのように快適な日々に戻りました。
さすがに私は「自分の年齢を忘れて、がむしゃらに体を痛めつけていた」ことに気づきました。そして手術後に心配そうに私をのぞき込んでいた妻の顔を思い出しました。深く反省しました。もう二度と家族に心配をかけまいと、柔道をきっぱりやめる決心をしたのです。

急に稽古をやめた私は、朝のウォーキングだけでは、やはり、物足りませんでした。「体を動かしたい」という思いを常に持っていたのです。それでも、柔道をしたい気持ちはグッとこらえました。

操体法で体のゆがみが正された

そんなとき仕事仲間から、体のゆがみを正しながら筋トレをするというジム(宮畑豊会長・トレーニングセンター・サンプレイ)を紹介されました。2016年8月でした。私は週に2、3回、2時間のトレーニングに通いはじめたのです。

そこで「操体法」に出合いました。操体法は、体を動かしやすい方向に何回か動かしてから、パッと脱力する運動です。すると、痛い部位や動かしづらかった関節が自然に動き、痛みが和らぐのです。
私は、柔道の得意技でよく使う筋肉とそうでない筋肉に差が出ていました。技をうまくかけるために、右腕の筋トレのみを行うなど、偏っていたのです。操体法で体の前後左右のゆがみを正し、それから筋トレを行うメニューをこなしました。

ジムで操体法と筋トレを1ヵ月半続けたころです。手術後、左足に力が入りにくかったのが少しずつ改善して、足腰がしっかりしてきました。歩幅も広く、速足で歩けるようになって、疲れにくくもなりました。階段の上り下りがらくになり、一気に上りきってしまえるくらい身軽になったのです。
実は、私は45歳のとき稽古中に脳梗塞を起こしています。急にろれつが回らなくなって2週間入院し、投薬治療を受けたのですが、脳梗塞の後遺症で右手の中指、薬指の動きが悪くなりました。
柔道をするには支障がなかったのですが、若いころからの趣味だったギターを弾くことはあきらめました。
それが、操体法と筋トレを始めてまもなく、指先を含めた体全体の動きがよくなり、ギターをまた弾きたいと思うようになったのです。

ジムに通いはじめて3ヵ月たった今では、毎日がとても楽しいです。気持ちが前向きになって仕事への意欲もわき、家族との関係も円満になりました。
これまで妻にやってもらっていた布団の上げ下ろしも、最近は率先してやるようにしています。妻に心配をかけてばかりでした。今度こそ、安心してもらえているようです。
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「操体法」については、脊柱管狭窄症ひろばで解説する予定です。ご期待ください。もちろん、医師の治療を受けたうえで運動療法の一環としてセルフケアを行うことが何より重要である点を忘れないでください。

この記事はあくまで個人の感想であり、治療法やセルフケアの効果効能を保証するものではありません。

●脊柱管狭窄症をいちから知りたい方は、ぜひ下の記事をご覧ください。


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